<つかこうへい演劇の役者論>
この役者論はつかこうへい氏から直接話を聞いて書いたものではなく、私が20年間稽古、本番と携わって得た私論であって、間違いがあるかもしれません。氏からは「何ボケた事ほざいてるんだ」とお叱りをうけるかもしれません。そこのところを了承されてお読み下さい。
氏の舞台には基本的に舞台装置、衣装が存在しません。その理由は装置、衣装によって役者の人間性が観客に薄く見えるからです。なぜ薄く見えるかは後述します。映像では「アップ」「引き」といった処理ができますが、舞台では全編「引き」なのです。役者の細かい言い回し、動作、表情が装置等によって観客の目が移り、見るべき重要な点が見過ごされてしまい、演劇として成立するのが弱くなるということです。観客は芝居を見に来ているのであり、役者あっての舞台ですので美術、衣装はあくまで効果にすぎません。現在の商業演劇の豪華絢爛な舞台の観客は団体客が多く、芝居が始まるやいなやおしゃべり、弁当を食べるといった行動が目立つことが多々あります。これも演劇なのですが、これで良しとする舞台と、そうでない舞台の違いです。要は芝居を見せる意識の違いだと思います。当然つか氏の演劇は後者です。氏の演劇の要は「何を見せるか」ではなく、「何を伝えるか」です。例えば議論をしている時、論点をはっきり言わずに回りくどくだらだらと言うと、結局のところ「あの人は何が言いたかったの?」と伝えたいという自らの意志に反した結果になってしまうのです。このことは日本人全体に蔓延している国民性です。国会の質疑応答を筆頭に、稟議書を回す、しょっちゅう会議をする、etc。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式のあいまいな責任のとり方が今の日本の価値観の一つになっています。
このような状況の中で演劇はどうあるべきか?といった質問に明確に回答した演劇が1980年代のつかこうへい演劇です。氏の演劇に対する考え方は2001年の現在も変わっていないと思います。氏の演劇の根幹テーマは「何を伝えるか」です。
したがって氏の役者に求める条件その1は
「何を伝えるか」です。
舞台で演じられるものは虚構の世界です。現実には存在しない作りものです。その中に役者が存在するわけですが、役者が発する台詞は「嘘の言葉」でしょうか?
役者は作家がつくった台詞を観客に対して「本当の言葉」に変換するのが本来の仕事です。「嘘の言葉」では「伝わらない」のです。そこで役者は役作りをします。しかし役者である人間が持つ価値観、人生観があいまいのまま役作りして「本当の言葉」は言えるのでしょうか?
氏の稽古場では役者には台本がありません。(1997年頃から台本があるようになりました)役者は次ぎに言うべき台詞がわからないまま氏の口立てを追いかけたてしゃべり続けます。そして口立てで与えられた台詞に対し瞬時に本能的、動物的、肉体的に反応し「自分の言葉」として言える状態を作り上げるのです。そして最終的には膨大な台詞の量をしゃべることになり、結果として役者には考える暇を与えないのです。その状態の役者というのは全く「欲」がなく「本能」だけで芝居をしていることになります。
そんなもの瞬間芸に他ならないと反論する方も多いでしょう。
ではスポーツを考えて下さい。野球でホームランを打ったとします。打者はボールを打った瞬間を考えているでしょうか?ホームランを打てるということは日頃の練習、トレーニングから得ている「肉体の瞬間的な反応」ではないのでしょうか?この「肉体の瞬間的な反応」が観客を興奮させていると考えられませか?
観客はこれを見たいのです。役者はこのような状態をいつでも、どのような環境においても演じることが出来るのが本当のプロです。
これらは全く同じ台本を別の役者が演じると別物ができるということで理解できるでしょう。
役者の基本は役作りではなく、「自分の言葉」で台詞を言えることです。
リチャード・ギアが悪徳警官の役をやっても、青年将校の役をやっても観客はその虚構の人物像をリチャード・ギアを通して理解するのです。これはリチャード・ギアが「自分の言葉」で台詞を言っているからに他ならないからです。このことはダスティン・ホフマンなど一流の役者すべて言えることです。それが役者を職業としている一人の人間としての存在感の大きさに繋がるのです。
路上で男2人の喧嘩が始まりました。喧嘩を止めようとする者、はやし立てる者などさまざまな人が集まってきます。2人の怒りのぶつかりあい、お互いの主張の否定しあいがやじ馬を興奮させているのです。この興奮する源は「次ぎにどんな言葉で言い返すのか」といったやじ馬達にとって予期せぬ展開があるからです。喧嘩のおおもとの原因は大抵ささいなことのはずです。それがどんどん興奮して最後にはお互いの人格を否定する言葉まで出てきます。さらに暴力まで加わってきます。故にやじ馬にとってはドラマとスポーツをミックスした舞台と化した喧嘩が面白いのです。
条件その2は
「予期せぬ展開」です。
役者は当然ながら自分がしゃべる台詞は最後まで頭に入っています。そのため段取りで芝居をしがちになります。この段取り芝居は観客にとって「予期せぬ展開」にならないのです。観客は芝居がどう展開して行くか先が読めてしまって客席のテンションは上がりません。
氏の舞台に立つ役者は次ぎに言うべき台詞を観客に読まれないようにしなければなりません。そのために目線、立ち姿など肉体全てにスキを見せないようにします。特に自分の台詞が無いときの芝居が一番重要なのです。大抵の役者はそこで「お休み」をするのです。「お休み」をすると一発でスキを見破られる本当の恐さを知っている役者は多くありません。
これらを実践するためには、まず人間の「欲」である「評価してもらいたい」「目立ちたい」などの訳の分からない価値観を取り去る必要があります。そのためにはまず考えないことです。集中することです。自分の回りのくだらない価値観、欲をすべてそぎ落とし、純粋なる「自分」を見いだすようにします。そこではじめて「本当の言葉」がしゃべれるようになるのです。役作りはそれからやるべきです。それができないで役作りする役者は小手先の芝居しか出来ないということになります。
「本当の言葉」は人の心を動かす力があります。
その3は
「情景が見えるように演じる」です。
舞台上で役者が台詞を言っているとき観客の目は役者を見、耳は台詞を聞いている訳ですが、もう一つの目に今演じられている情景が見えるように演出されていることです。これはどういうことかというと、小説を読んでいるとき目は文字を追っているのに、頭のどこかに情景が見えるのと同じことなのです。役者は台詞という言葉を通して観客に台詞の後ろに流れている情景を見せるように演じなければなりません。その情景をはっきりさせるためにも舞台装置、衣装はじゃまになるのです。
これら1~3をマスターした役者は存在感の大きい役者になると思います。
氏の演劇は「役者としてこれら基本部分だけを追求した芝居」なのです。これを通らなければ絶対一流の役者にはなれないと私は信じています。
全くの素舞台または豪華絢爛な舞台、どのような環境にあっても役者の基本姿勢は変わってはならないはずです。
(2001.2.6)2001.2.17改