新型コロナのパンデミック後を力強く生き抜くために
思考回路をカットチェンジする

                 山 本 能 久  


<まえがき>

 明治維新後の日本は、鎖国時代の価値観から欧米流の近代化への価値観を求めてそれに追いつけ、追い越せの勢いで大転換をしました。しかしながら資源が少ない日本にとってさらなる経済的発展を目指すため軍事大国化し天皇の神格化教育などで人々を誤った方向へ導き、資源を海外に求め侵略することを正当化してきました。これが第二次世界大戦へとつながり悲惨な結末を迎えました。そのような状況にあっても日本国民は戦後復興に努力し現在では経済大国として世界に認められています。
 しかし戦後の日本人は経済発展や文化的生活向上の追求という価値観一色となり、人としての価値観について思考することを忘れてきた様に思います。結果現在顕著に見られる自己中心主義的価値観が蔓延してしまいました。それは現在の言葉や マナーの乱れ、さらにはモンスタークレーマー、モンスターペアレンツ、パワーハラスメント、あおり運転等自己中心主義の極値の考え方が表れるまでになっています。

 私は日本の経済、文化などの価値観の大変動は2025年に開催される大阪万博終了後に始まると予想していました。
 高度成長時の日本は世界の工場と化し、新しい製品開発による新しい価値観の創造で世界を席巻していました。しかしインターネットとAppleのiPodの出現以降アナログからデジタルへの移行に日本は立ち後れました。そして2020年の東京オリンピックと2025年の大阪万博で日本経済の再浮上を目指していましたが、2020年3月に発生した新型コロナウィルスによるパンデミックによってオリンピックは2021年に延期、外出や出勤を控える緊急事態宣言が出され日本のみならず世界中の経済、文化などの低下、医療機関の逼迫した状況等によって様々な価値観の変化が起き始めています。
 このパンデミック後は3密を避ける為に身近ではスーパー、コンビニの自動決済システムの進化、オフィスの急速なAI化など、私たちが今まで想像していた以上に人員整理の波が早く進み、結果就職先が無いといった大失業時代になる、と予測しています。
 そうなった時に今までと同じ価値観で生きて来たことが正解なのか、間違いなのかを検証し始めても遅いのです。私たちの思考回路をコロナ収束後までにカットチェンジする必要性に迫られている、と言っても過言ではありません。

 日本独自の経済活動の在り方や伝統文化は海外に通用するものが多く存在します。それらを再検証し、100年後には資本主義、社会主義、共産主義といった政治体制を越えた価値観、つまり世界中の人々が幸せ感に満たされる地球を目指した新たな価値観創造ができるシンクタンクや教育改革を早急に研究、議論、実施ができる環境の構築が必要な時です。中国やインドは日本の10倍の人口です。優秀な頭脳を持った人も10倍存在している事になります。経済、科学、文化の発展は日本の10倍のスピードで進化していくでしょう。ただ中国人は古来より民主主義というものを経験したことが無い人種です。全体主義で動くので、人民一人一人の「個」がないがしろにされがちです。この部分が日本が中国に無い価値観を創造できる「核」があるように思います。
 個々同士の繋がりの延長線上に国があるはずです。 
 現在の日本人はデジタル機器から得られる溢れる情報によって人々は右往左往し、時流に後れまい、あるいは目立ちたいと必死になっている姿があります。一番大切な「何の為に?」と熟慮する事を避けている社会状況です。個々同士の繋がりを強固なものにするために、今人間としてどうあるべきか、どのように生きて行くべきか、他人に対して自分はどうあるべきか、といった命題を自分自身で考え、自分自身の思考回路をカットチェンジすることが将来の日本の価値観創造と発展に繋がります。

<自分の存在意義>

 人類以外の全ての動植物は種の保存のために誕生し生存し死んでいきます。人間は進化した脳を得たことにより、「種の保存+存在価値」を求めて生きています。それが「自分」とは何? 何故ここに居るのか? 自分の存在価値は何?と言った永遠に解答が見つけられない命題を自ら与え進化し続けています。
 自分の存在の基本は、両親の存在があって自分が存在している、という当たり前の事実を日常の煩わしさの中に埋没させてしまっている社会環境があります。
 両親が愛し合って生まれた自分、両親があまり子供を欲しなかったが生まれた自分、
など様々な環境で存在している自分がいます。両親から受け継いだDNAとその後の環境の違いが人格形成の基礎となります。
 母親に抱きつく自分、要求が通らなくて怒ったり泣く自分などの言動は、両親の自分への愛情確認行動です。このときの両親の自分への対応によって自分と両親の存在理由、存在価値に相違が生じます。また例え相手が子供であっても一人の人間として真正面に向かい合う環境がほとんど無い現在では個人主義や自己保身主義の方が優先され、自分自身に向き合う事が少なくなっています。このことが良し悪し含め世界中に様々な価値観を持った人が存在している理由です。

 中華そば屋で500円のラーメンを食べたとします。何気ないよくある日常の行動ですがこれを深く考えてみます。
  具材、調味料、器を作った人(農家、畜産業、工場労働者)
  スープを作った人(ラーメン店店主)
  テーブルまで運んだ人(ラーメン店従業員)
 ラーメンですらこれだけの人の手(労働)を経て自分の口に入っているのです。
 自給自足でない限り、他の人の力があってこそ私たちは生きることができるのです。

 また自分がラーメン店を経営しているならば、何故ラーメンを作るのか、という基本理念が経営する基礎にあって、その理念をもとに客がどの様なラーメンを求めているのかを追求したり何回も試作したり、ラーメン業界を勉強したり、と自分自身を向上させることが、客を幸せにする、に繋がるのです。そしてこの繰り返し行為が社会貢献となります。店の経営は売り上げ増を主目的としていますが、経営理念からの主目的は「美味いと客に喜んで来店して貰える店」を追求することになります。ただし世の中には様々な価値観を持った人がいます。「これは嫌い」「口に合わない」と否定されることもあると思います。しかしよく考えて見て下さい。全ての人に受け入れられる物は存在しないことを。大切なことはラーメンで言えば食文化を創造する、という意識改革に思考をカットチェンジすることです。

 売上重視の店は一時的には利益があるかも知れませんが長続きしません。なぜならばラーメンという商品よりも売上に比重がかかり、商品に対する思いが薄いため、客からは「それなりに美味かった」という評価になり、客と店の関係は一過性で終わります。一方理念重視の店は長く存続できる可能性があります。なぜならば商品が常に進化しているのでリピート客が増えるためです。
 この様に思考をカットチェンジすると、店と客という関係から「人として認め合う」関係になり、お互いの存在価値が明確になり存在意義が目覚めるのです。
 日常の中に「何故」と考え始めるヒントはたくさん転がっています。それに気づく物の見方が出来る自分に切り替えて見て下さい。
 缶ジュースの缶はどうやって印刷している?
 ペットボトルに印刷された熱収縮素材で巻いてあるのは?
 スーパー等の自動レジの利便性と社会関係は?
などなど。
 人は誕生してから日々の生活に追われて、以下の「何故」をあまり深く考えずに生きているように思います。
  何故学校に行くのか?
  何故就職するのか?
  何故仕事をするのか?
  何故この人と結婚したのか?
  自分は何故生きているのか?
  自分とは?
 この「何故?」に気付いた人が存在したからこそPanasonic、SONY、トヨタなど世界に名だたる一流の企業に発展し今も進化し続けているのです。自分には才能がない、能力がないと悲観するのは簡単です。それは前を向いて生きて行くという挑戦することに怯えているのです。失敗したらどうしよう、人から非難されるのはいやだ、といったマイナス思考に陥っているのです。その結果、引きこもり、快楽主義、生命維持重視(今日の食があればよい)の人になります。このようなマイナス思考からは何も生まれません。ペット犬を見て下さい。お菓子をもらうために一生懸命お手、お座りをします。また新たな芸を必死に覚えようとします。ペット犬は種の保存と食欲だけの本能の動物から進化しているのです。
 例えば自分の周辺に誰にも触れせたくないほどの大切な物はありませんか?それが音楽CDだとします。「何故このCDが大切なんだろう」と考えてみて下さい。そのCDを購入あるいはもらった時の環境、自分の心を思い出してみましょう。考えているうちに大切にしたいと思う理由が見えてくる筈です。その理由が自分の存在理由の基礎になります。
 いじめられて帰ってきた時にテレビからそのCDの音楽が流れていたので、それを購入した。傷ついた心に響く音楽だったから自分の人生にとって大切な物になったとします。ここでその音楽のどの声、どの歌詞、どの楽器、どのメロディーが自分の心に響いたかを少し深く分析します。楽器だとしたら「この音が出る楽器のメーカーは? 演奏者は?」と「何故?」が沸いてきます。このように追求していくと多くの「何故?」を解決しようとする力になります。もし「この音が自分の傷ついた心に響いたんだ」という答えが導き出せたら、自分と同じように傷ついた他人の心と同調する音を持つことが出来るのです。ここで会ってもいない他人との関係が成立し始めていることに気づいて下さい。以降は作家、ミュージシャン、エンジニアなどへの道が開け他人の心に響く音楽を創造することが出来るようになるかも知れません。
 自分が表現したことが他人(一人でもいいのです)の心に響かせることで初めて自分の存在価値が認められる事になるのです。また自分の存在価値が認められる事は即結果が出るものではありません。長い時間やり続けることは自分自身との戦いになります。真摯に自分と向き合い失敗、挫折を繰り返す姿勢が他人の心を動かします。一人で黙々と投げ出さずやり続けられる自分に切り替えましょう。
 人は様々な事象を抱えておりなかなか解決しない事も多いと思います。まずは自分の現状置かれている状況を把握、分析出来るように基本思考をカットチェンジしましょう。 


<人間関係>

 新型コロナの影響で2020年4月に緊急事態宣言が発令されました。国民は濃厚接触を避ける為STAY HOMEを合い言葉に家に閉じこもりました。マスコミは連日感染者数を報道し続けています。そして閉じこもりによりストレスが増え様々な問題、事件が起こり始めています。この状況を見てみると人は、人は生きる上で他人との接触が衣、食、住と同等に重要な要素である事が分かります。人間関係構築についてコロナ以前から以後へと大きく変化していくと思います。

 しかしこの変化のうねりの中においても人間関係の基本すなわち「人と人の繋がりとは何?」という基本は不変ですが社会環境の変化に合わせて再考し、脳の無意識領域に人間関係の基本を定着させておく必要があります。


 上記の図は自分に一番身近な家族、配偶者、友人の関係を示したものです。一人の人間ですらこれだけの人間関係があり、また配偶者、友人それぞれにも人間関係があります。そして様々な価値観を持った人間同士が関係していく訳ですから複雑で難しいと言われる所以です。この図からはそれぞれの人が先祖、祖父母、両親、兄弟に感謝しなければならない、ということが分かるはずです。この感謝する心が家庭内の人間関係、他者との人間関係を良好にする為の基本です。
 自分自身を考えてみましょう。自分の周りで一番身近な人間関係は父母、兄弟です。そして父母、祖父母および家系上存在した人がいたから現在の自分が存在しているということは至極当たり前のことですが、それが無意識状況になったまま生きていないでしょうか。親が子に進路を押しつけたり、夫婦間で主従が存在したり、家に帰りたくない、といった家庭内ですら無意識であるために人間関係よりもそれぞれの欲の方が優先している家庭がいかに多いか、という現実があります。家庭内の人間関係をうまく構築出来ない人が社会の中で人間関係をうまく構築出来る訳がありません。よって人間関係を考える前に人が元来持っている欲求を考える必要があります。
 人間の基本欲求(生理的欲求)は食欲、性欲(排泄欲)、睡眠欲です。これらの欲求は人類という種の保存に必要なものです。加えて社会生活を営む上で社会的欲求があります。社会的欲求は
  認められたい、出世したい
  お金が欲しい、良い家に住みたい
  いじめたい、無視したい
  など
があります。さらに本能以外の生存欲求、関係欲求。成長欲求があります。
 生存欲求は生きる為の欲求で具体的には賃金や雇用条件のアップ、家庭や仕事場の環境アップなどです。
 関係欲求は自分の周りにいる人々との関係を良くしたいという欲求です。
 成長欲求は自分自身が成長したい、何かを創造したいといった欲求です。
人間の生存欲求以外の、認められたい欲(褒められたい欲)、名誉欲、権力欲など他人を支配、差別あるいは優越感を求める欲求が人間関係をより複雑にしていることに気付くべきです。そして人間関係はこの欲との戦い(自分自身との戦いを含む)の上に成り立っているのです。この戦いを避ける(現実逃避する)事が社会から離れ、引きこもり、孤独死等へ結び付いて行くのですが、全ての人が戦いに挑む力を持っているとは限りません。
 『友達と仲良くなるために自分の考え、趣向を抑え友達に合わせる』
 人間関係を語る時良く聞く言葉ですが、友達に合わせる為に自分を抑えたり、またそのような面倒な事をするなら友達はいらない、と考える前に自分自身に問いかけて下さい。  
  自分の長所、短所をきちんと把握していますか?
  自分の出来ること、出来ないことをきちんと把握していますか?
  自分の好きなこと、嫌いなことをきちんと把握していますか?
 まずはこの3点を自分に問いかけて下さい。そして自分が無理をしないで出来ることは何か、を見つけましょう。無理をするとストレスがかかり逆効果になります。自分が出来ることが見つかったら、がむしゃらに夢中でやりましょう。ここでがむしゃらに夢中になることは物事に集中する事である、と覚えておいて下さい。当初は友達は居ないでしょうが、そのうちその夢中さに他人が興味を示し始めます。これが人間関係の基礎になります。この関係は「自分の考え、趣向を抑え友達に合わせる」から「自分の考え、趣向を友達に分かってもらえる」に変わります。
 実社会に良くある例を示します。オフィスで上司が社員に会議資料のコピーを依頼するとします。最初は社員誰でも良く手が空いている人に依頼します。しかし時間経過と共に人によってコピー資料の仕上がりに差が出てきます。その結果
 「Aさんに会議資料のコピーを頼むと製本した様な完璧な物が出来上がる」
といった評価でAさんの価値が上がり上司との人間関係が良好になります。けれども自分が評価された事に対して同僚に「私はあなた達とは違う」と権勢欲で接すると同僚との人間関係がぎくしゃくしてしまいます。これが進むと嫉み、嫉妬に繋がり最悪の人間関係になります。そういった人間関係にならない為には「自分は一人で生きていない」「他の人の力があって自分が存在している」という思考にカットチェンジしましょう。そうすると完璧なコピーとそうでないコピーの違いをAさんが他の同僚に教える、という行動に変化します。同時に自分の行動を見て同僚からアイデアが出たりお互いに向上心が沸いてきます。結果組織全体の仕事効率、モチベーションが上がることに繋がります。
 人間関係を構築する上で自己分析、他者への感謝が自分の存在意義に如何に影響を及ぼすかが分かります。
 人間関係は自分の存在価値と他人の存在価値をお互いに尊重し合うことで初めて良好な人間関係になります。


<権利と義務>

 権利と義務を実際に行使することが日常的に多々ありますが、意外と間違って解釈、行動している人を多く見かけます。

 選挙に行くのは権利or義務? →権利
 小中学校で授業を受けるのは権利or義務? →義務
高校、大学で授業を受けるのは権利or義務? →権利
 宿題をするのは権利or義務? →義務
 時間拘束された仕事をするのは権利or義務? →義務
 残業するのは権利or義務? →義務
 残業した結果、残業手当を貰うのは権利or義務? →権利
 購入した商品が壊れていてクレームを言うときは権利or義務? →権利
 借金を返済するのは権利or義務? →義務

 ストレスの多い日常においては自己中心的な言動を取ることが多々あります。この権利と義務は他人との関係で生じている、と言う単純なことを再自覚する必要があります。
 権利と義務は基本的には下図のように釣り合っていなければなりません。

 先の「存在意義」で前述したようにあなたは一人で生きているのではありません。家族含め見ず知らずの人の力があって存在しているのです。また自分は見ず知らずの人が生きていくために役に立っているはずです。その見ず知らずの人と自分の間に権利と義務が生ずるのです。


 他人との関係の中で権利と義務は「権利=義務」が常識でありルールであり法律の基準となっています。
 例えば大学で授業料を払った(義務)から授業を受けられる(権利)ですが、もし休講が多い場合、大学は義務を果たしていないので「義務<権利」となります。よって大学側にクレームを入れる事ができます。逆に授業をサボると権利放棄になるので「義務>権利」となります。サボる学生が多いほど大学側は儲け得になります。しかし今の大学生に聞くと授業を受ける行為は義務と答える人が多いことに驚かされます。権利と義務を「授業料と講座の受講」に置き換えるとわかりやすくなるのでしょうか。これは小中学校が義務教育であることをそのまま引きずっているからでしょう。そこで高等学校に入学した時点でこの権利と義務の教育をしっかり行う必要があり学生の思考のカットチェンジをしなければなりません。
 東日本大震災では或る社長は従業員を全て避難させた後津波に襲われて命を落とされました。またボランティアの方々が被災された方の手伝いをされています。これらの方々は何の見返りも求めず従業員優先、困窮者の支援という信念のもと行動されています。この「何の見返りも求めず」は権利の放棄になるのですが、権利と義務を突き詰めて考えると、そこには損得勘定を入れない、差別しないという哲学が底辺に必要になります。しかし現実には
 自分の考えを他人に押しつける →傲慢
 失敗したり目標達成出来なかった事を他人のせいにする →傲慢
 被害を被ったから相手に無理難題を押しつける →傲慢
などの行動がニュースで度々報じられます。自分の事を最優先し他は関係ない、といった人は、何故そのような考え方になったのかを深く考える事が必要です。また「シェアする」といった言葉が安易に流行の様に用いられますが、「共有」とは皆が幸せになる為の基礎としてあるべき筈なのに道具として用いられていることに危惧します。
 権利と義務は政治体制、社会構造が変わろうとも個々の人の間できちんと理解、行動がなされればおのずと政治体制、社会構造をも変える力があります。
 2011年に中東の市民による民主化運動「アラブの春」が起こりました。長年続いた北アフリカ諸国の独裁政権がドミノ倒しのように次々に倒れていく様子は世界史に残る革命として、また市民が政治の主役となる新時代の到来を告げるものとして歓迎されました。
 ところがその後の中東は未曾有の混乱の中にあります。民主化は未だなされず、独裁政治の復活や内戦の勃発やISの出現と中東の状況は革命以前よりも悪くなっています。
 これを権利と義務から考えて見ると、国家の指導者が義務を果たさない、つまり民衆を抑圧し民衆の自由を奪う(国家運営は義務なのに権利欲=傲慢)体制から民衆の権利執行としての運動が始まり革命となりました。しかし民衆にはイスラム教という宗教が最優先され、さらに権利と義務の基本概念を理解した指導者がいなかった事でその後は混乱した状況になっているのだと思います。
 権利と義務の基本概念の学習をないがしろにすると国家の命運にまで影響を及ぼす事を理解しましょう。
 権利と義務の今までの考え方からカットチェンジしてみましょう。



<仕事をするということ>

 明治以降、欧米に追いつけ、追い越せの号令のもと、日本は海外から様々な技術を取り入れ発展してきました。当初は模倣から始まり改良、改善を繰り返して現在に至っています。一時期松下電器(現Panasonic)などは「真似下」と揶揄された事がありますが、現在はそのような揶揄は払拭され一流のグローバル企業になっています。
 日本人は改良、改善に努力を惜しまない国民です。
 現在の中国、韓国、東南アジアは当時の日本を彷彿とする経済発展をしていますが、目先の利益に走らず改良、改善に努力するかしないかによって遠い将来、それぞれの国のあり方に大きく影響を与えると思います。
 2019年4月から労働者を守るという観点から「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律」が施行されました。
 働き方改革とは、働く人々が個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方を自分で選択できるような改革です。この法律の立法趣意は将来労働人口が減少し日本の経済に悪影響が出ないように、現在の労働者の待遇を良くするために長時間労働の禁止、正規、非正規雇用労働者の格差を無くし働きやすい社会作りが目的です。
 法律の概要は以下の通りです。

 第1の柱:働き方改革の総合的かつ継続的な推進(雇用対策法改正)


 第2の柱:長時間労働の是正と多様で柔軟な働き方の実現等(労働基準法等改正)
1、 時間外労働の上限規制の導入
2、 長時間労働抑制策・年次有給休暇取得の一部義務化
3、 フレックスタイム制の見直し
4、 企画型裁量労働制の対象業務の追加
5、 高度プロフェッショナル制度の創設
6、勤務間インターバル制度の普及促進(労働時間等の設定の改善に関する特別措置法改正)
7、産業医・産業保健機能の強化(労働安全衛生法・じん肺法改正)


 第3の柱:雇用形態にかかわらない公正な待遇の確保

1、 不合理な待遇差を解消するための規定(短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律(パートタイム労働法)・労働契約法改正)
2、 派遣先との均等・均衡待遇方式か労使協定方式かを選択(労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律(労働者派遣法)の改正)
3、 労働者に対する待遇に関する説明義務の強化
4、行政による履行確保措置と裁判外紛争解決手続(行政ADR)の整備

 ここでいう労働者とは、時間売り労働をしている労働者に対しての法律であって、仕事をするという事と労働そのものが混同されて法制化されているように思います。現実社会を見てみると「正社員にはなりたくない、好きな時だけ働けば良い、今日食べられれば良い」といった価値観を持った人がかなり多く存在しています。故に非正規雇用の人の割合が多いのです。何時から何時まで仕事、というのは自分自身が持っている時間を上司から指示された通り実行し結果を出さなければ収入が得られない、これが自分が持っている労働力の時間売りに対する報酬です。他方雇用者側は結果が出せれば、頭数さえ揃えばそれで良し、労働者の能力や人間性を考えずに自分の成績ばかり考えるなど、雇用者側の問題点と労働者側の教育不足が不幸な事件に発展した職場が多く存在しているのも事実です。この双方のかけ離れた価値観の見直しと将来の労働力不足を考えるとこの法律は有効でしょう。また生活保護を受けなければ生きて行けない人々、母子家庭などの人々に対しては社会が今まで以上に手厚く手を差し伸べるべきでしょう。しかしこの手厚い保護政策も悪用する輩がいるのも現実ですので悪用出来ない仕組みも必要でしょう。
 ここで、雇用者側も労働者側も今一度「仕事をする」ということはどういう事かを再考する必要があります。
 時給1000円の仕事を一日8時間、月に25日働いたとして、1ヶ月の収入は20万円になります。仮に不可能ですが1日24時間、31日間休み無く働くと1ヶ月の収入は74.4万円になります。どんなに自分の体を酷使しても1ヶ月の収入には限度があることがわかります。
 「作業」とは管理者から与えられた業務を指示通りに進め結果を出すことです。結果が目標に達成できなければ報酬が下がるか解雇されてしまいます。初期の資本主義社会においては資本家による、過酷な労働に対して見合わない報酬や、多くの労働災害によって1947年に労働基準監督法が施行されました。以降も未整備の福利厚生や工場のオートメーション化に対して労働者の反対運動も活発になりました。しかし高度成長時代、東京万博を経た後の社会はコンピュータのパーソナル化、インターネットの普及によって世界中の人々の労働という価値観が大きく変化しました。将来の労働はオフィス、店舗等のAI化により人による労働力不要の時代に突入すると思われます。
 不要人員にならない為に「作業」で終わらせない「仕事」ができる人になる様に思考をカットチェンジしましょう。
 例えば「この書類のコピーを5部とってくれ」と指示を受けた場合を考えてみましょう。
 誰でもコピー機に向かって元原稿をセットしスタートボタンを押します。そして仕上がったコピー書類を元原稿と合わせて提出、というという行動をします。
「作業」では、5部間違いなくコピーします。
「仕事」では、指示者に「この書類の使用目的は?」と確認をとり、目的によって綴じ位置を考えて綴じ代部分をとってコピーします。
「仕事」とは指示された事以外に「自分の考えを足して出来上がりをより良くする事」です。
「仕事」とは「Creative Work」です。
 決められた通りのことを疑問もなく毎日繰り返す事は「作業」で、改善を考える事が「仕事」になります。
 このやり方を繰り返していると、第三者からは「貴方は当社にとって本当に重要な人材である」と評価され、結果として収入も上がる訳です。
 ではどうすればそのように出来るようになるのでしょうか?

1,指示をされたら、その指示の最終出来上がりを想像する。
2,仕上がりまでの作業工程を頭の中でシュミレーションし、無駄な工程を一切省く。
3,頭の中の思考は物事を複雑にせず、計算(工程)を一つずつ確実にしてゆく思考回路に変える。

 以上が仕事をする基本です。

「自分は仕事ができる」とか「上司は俺の本当の力を理解してくれない」といった過剰意識や不満が出てくるのは思考回路が自分に向かっているのに気付きましょう。人の評価というのは自分が出すのではなく、他人が出すものです。この当たり前の事を再確認しましょう。

<数学的論理思考から創造的思考へ>

 物事を実行する場合、一つ一つ確実に間違いなく実行しないと目的の結果が得られない、これが数学的論理思考の入り口になります。

 例えば以下の計算を考えます。


 与えられた計画1と計画2を実行する前に、3×5=15、1繰り上がって2×5=10の下一桁の0に先ほど繰り上がった1を加算して1、さらに1繰り上がって5×1=5に1を加算して6になる、と計算します。この計算途中でミスが無い場合は実行結果1になります。同様に実行結果2を出した後、それぞれを加算することによって最終結果が得られます。これは単純なかけ算の計算ですが、このような思考で仕事をしていくようにすると、途中経過や最終目的の数値化とその方法論や検証方法が明確になってきます。最初は時間がかかりますが確実な仕事が出来るようになります。
 まず現状分析結果を数値化し、自分のやるべき事を明確化し、それらと最終結果をシュミレーションした後実行に移し、途中分析の数値化、修正の繰り返しを行い、結果を出す、このように考える事が数学的論理思考です。
 このように考え行動する事によって相手を説得できたり、失敗してもどこに誤りがあったかを自分に対しても相手に対しても明確にすることができます。
 私たち一般人は天才ではないのです。私自身も当然天才ではありません。しかし天才に近づきたいと常に思っています。その為に自覚、目的を持って、努力をして、失敗しながらも前へ進んで行かなければならないのです。一歩ずつ確実に前へ進んで行き、自分の夢を実現する為には日常生活において常に自分の思考を論理的にすることによりそれが可能になるのです。

 人は誰でも夢を持ちそれを実現したいと願って生きています。子供の頃は夢が楽しくまたそのようになりたいと無邪気に過ごしていますが、年齢を重ねる毎に現実に向かい合う時が多くなり子供の頃の夢がだんだんと薄れていきます。しかし誰でも本音は夢を実現したいなぁと思っている筈です。夢は漠然としておりなかなか実体が見えてきません。目に見えない不確実な物を数値化するのは難しいと思います。故に数学的思考だけでは夢の実現には立ち向かえない事があります。
ここで簡単な計算をしてみましょう。

1+1+1+1+1=5 ・・・・(1)
1+1+1+1+1=9 ・・・・(2)
数学的には(1)は正しく(2)は間違っています。

 (1)は
1+1=2
2+1=3
3+1=4
4+1=5
の様に一つづつ確実に問題解決し最終解を導き出しています。

 (2)は
2+1=3----①
3+1=5----②
5+1=7
7+1=9
このありえない計算の意味は数学的論理思考に創造的思考を加算した計算を示しています。

①式は1+1=2は数学的には正解なのですが、この2にさらに1を加算すると3になります。この1を加算する思考が創造的思考になります。前章のCreative Workと同じです。このCreative Workの一例が<人間関係>の章のコピーをとる仕事になります。                                              

②式の3+1=5は1+1=3の仕事をした人がさらに次の仕事で1を加算した仕事をした、という意味です。以下同様に考えて下さい。

 この1を加算することが「仕事を創造する事」になります。まずはこの1が自分にとって何か?(与えられた業務以外に何をすれば良いか?)に気付く必要があります。気付く簡単な方法は、与えられた業務に対して意識を集中しながら最終完成形のイメージ化をし、実際に遂行する業務の流れの洗い出しと疑問点からイメージとのギャップを見出す事です。もしギャップが明確になれば疑問点などの解決方法を見つけ出し、それを埋めるために自分なりに工夫した業務を付け加えれば良いのです。
 イメージ化とは視覚ではなく脳内に見えるように映像化する事です。あなたが文庫本の小説を読んでいるとします。視覚は本の文字を見ていますが、脳内には物語の情景や登場人物の心情が見えた経験はありませんか?その瞬間は物語に集中し登場人物と同一化し感情移入が起こり無意識にいろいろ想像している自分がいるのです。集中することが想像力発揮に繋がります。
 芸術家の仕事はイメージの具現化=作品になる訳で、無形から有形を生むことです。音楽家は無形から無形(音)を生む芸術家です。想像から創造へ意識を持っていくためには芸術家的素養が必要になります。
 私は芸術家ではない、芸術的センスなんて持ち合わせていないと多くの方が思われるでしょう。しかしあえて芸術家になろうとする必要はありません。意外にも自分の想像力を喚起する材料は身近に転がっている事に気付きましょう。
 目的、成果目標、自分以外の全体把握、現状分析、改善方法、実践へと今までのやり方から改良、改善するために本来やるべき業務以外に思考、行動する事が「仕事をする」=「創造的思考」ということになります。このような発想をすることがCreativeなのです。
 この発想が出てくるためには前章<存在意義>で述べた「何故?」が必要不可欠になります。
 そして提案する場合にはより多くの人々に理解させる為に「数学的論理思考」と「創造的思考」から全ての業務の数値化と最適解を明示することが必須になります。

 自動車教習所で「・・だろう運転はしない」「・・かも知れない運転をしましょう」
と教わりますが、日常的に起こる事件や事故の被害者の気持ちを想像したりなど、イメージ化できる場面はいくらでも存在していないでしょうか?人間誰でもイメージ力は生まれつき持っていますが本来持っている力をうまく使うか使わないかは自分自身なのです。小さな事でも良いので常日頃からその力を認識し続ける事によって時間はかかりますがその力は誰にも真似できない研ぎ澄まされた感性になります。
 例えば
 制限速度50Kmの道路を制限速度以内で走行中、左から人が飛び出してきてハネてしまいました。

▲「自分は法律に則っているので間違っていない、急に飛び出してくる方が悪い」と自己弁護する人
▲ ひき逃げする人

 これらの人は1+1の計算すらできていません。つまり自分に直面した問題が生じると他人のせいにしたりその問題を解決しようとしない自分中心主義の人のことです。逃げる人も同様、眼前の事象に対する社会的責任を放棄する自分中心主義の人のことです。自分中心主義は常に内方向にしか考えが及ばないので他者との関係性がうまく構築できないのです。自分を手助けしてくれたり、一緒に行動してくれたりといった他者がいないので孤独に陥り結局一生自分の目標や夢に到達できないということになります。想像力が欠落するとおのずと創造力は発揮されず「自分はダメだ」と自分の内面を責め最悪の結果を迎える事になります。

 スマートフォンばかり見ていないで街並みを見ながらを歩いてみましょう。本当に沢山の「何故?」に気付きます。都会においては行き往く人々のファッション、店舗の看板の色やロゴ、ビルの形、路線バスの現在地表示など、地方においては田園、城郭、無人駅など何気なくやり過ごす事柄をあえて「何故?」と一度自身に取り込みます。集めた「何故?」にインターネットや辞典等を頼りに一つ一つ解答を見つけ出す努力をします。この努力の途中で「こういうことだったのか」と理解するのと同時に「他に方法はないのか?」と再度「何故?」が生まれてきます。この「他に方法はないのか?」と思うことが、想像力が発動された証拠になるのです。想像力が発動された以降はおのずと自分の創造力の高次元化に繋がっていきます。
 想像力は誰にでも備わっている能力なのでその能力を最大限発揮出来るよう努力を惜しまずやり続けられる様に思考をカットチェンジして人生を豊かにしましょう。

<視覚以外の四感を鍛える>

 人間の五感は視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚です。現代はテレビやスマートフォンによる動画が発達し視覚が最優先されています。前章で述べた存在意義、人間関係、想像力、シュミレーション等は人間の視覚領域だけでは解決しません。視覚領域以上に他の4感が生きて行く上で比重が重い事を再考してみましょう。
 近年メールやSNSで人と人のコミュニケーションは文字情報が主になっており本当の意味でのコミュニケーションが欠落し始めています。これは文字という視覚のみによって人を信じたり行動することが原因です。人々を視覚優先に導いたのはテレビの影響が大きいと思います。本来の人と人のコミュニケーションはお互いに相手の目を見て声のトーンや強弱を感じる聴覚と視覚によって意思疎通がはかれ成立していくのではないでしょうか。さらに子供を抱きしめたり恋人の手を握ったりといった触覚が加わってより人間関係が深まるのではないでしょうか。

 黒い背景に小さな白点を右から左へ移動する映像に自動車の音を付けて再生したものを子供に見せ、「何が動きましたか?」と質問すると「白い点」と「自動車」と2通りの答えが出ます。「白い点」と答えた子供は視覚優先で「自動車」と答えた子供は聴覚が優先された結果です。また付ける音によって答えが変わります。
 ここで重要なのは自動車を見て(視覚)自動車はこのような音がする(聴覚)といった経験がないと答えられないことです。視覚と聴覚が一致した経験が脳に記憶されないとこのような現象は起きないのです。「あ」という字を書きなさい、と指示されたら誰でも「あ」と書けると思います。これは「あ」という文字認識と「あ」という音認識を脳内で一致させているから出来ることなのです。鳥、蝉、コオロギの鳴き声を聞いて季節の移り変わりを感じたり、赤ん坊の鳴き声を聞いて何を欲しているかを感じたり、玄関のチャイム、スマートフォンの着信音、駅の発車ベルなどの音で次の行動に移ったりと私たちは聴覚優先による無意識行動が日常的に多く存在します。また青春時代に見た映画「ローマの休日」のテーマ音楽を聴いただけで映画の1シーンがフラッシュバックした経験がある方も多くいらっしゃると思います。また映画の1シーンがフラッシュバックしただけでなくオードリー・ヘップバーンを見たくて行ったとか、誰と、どこの映画館で、見た後どこのレストランに行ったかなど当時の状況や気持ちまでフラッシュバックすると思います。音楽が流れている約3分間は感覚上の時間軸は青春時代に逆戻りしその後にゆっくりと現実に戻ります。この戻り方は短かったり長かったりと人によって様々です。音楽には人の過去や想像した未来への時間軸移動効果、傷ついた心を癒やす効果、気持ちが高ぶる抑揚効果、悲しさや喜びの気持ちを持ち上げたり、下げたりの感情移入効果など、人の人生を左右する程の力があることを忘れてはいけません。
 CDショップに行くと数十年前に公開された映画のサウンドトラックがいまだに並べられている実情は、いかに当時の作品が人々の記憶に残っているかの証明になります。
 救急車やパトカーのサイレン、落雷音、事故音などの音は人間の危険察知能力に直接働きかけます。 自分の後方で衝突音がしたとします。それを聞いたときの自分の行動を想像して下さい。小さな音だと「車がぶつかったのかな」とあまり気にしませんが、大きな音だと何がぶつかったかよりもまず爆発、火災から自分の身の安全を優先させる行動に出ると思います。同時にガソリンが漏れている臭いがすると確実に爆発に繋がるのでより遠くに避難する行動に移ります。人は聴覚、臭覚、触覚(地震等)によって危険待避行動が取れるのです。極端に言えば視覚は結果の認識であり他の4感は人の感情や精神を動かしたり危機から待避する力があります。
 昨日の昼食は○○のラーメン
 今日の昼食は○○の牛丼
といった、とりあえずの空腹を満たす為に選択したメニューは無意識の欲求から出ています。その無意識の欲求の根底には過去に食したメニューの味覚が記憶されています。また今日は記念日なので○○のフレンチでディナーと選択するのは、美しい盛りつけを楽しむ視覚と、上質の食材で作られた料理を一口食べた時の味覚と感動が記憶されているからです。また逆に美しい盛りつけなのに新鮮でない食材で作られた料理を一口食べた時の不満足な味覚と失望感が記憶されているから○○のフレンチは行かない、ともなるのです。 
 近年α波によってストレスの多い心をリラックスさせると文献やCDが売られています。そのCDを聞くとリラックス効果が得られるというものです。しかし私個人的にはその効果は半分位しかないと思っています。
 なぜならば人間の耳の可聴周波数範囲は20Hz〜20kHzと言われていますが、α波が出る周波数は40kHz〜70kHzと十数年前に音響学会で発表されました。普通のオーディオ機器でそのCDを再生しても40kHz〜70kHzは再生されないのでα波が出ませんが、本来音楽が持っているリラックス効果の方が大きいということになります。よってα波CDも普通のCDも効果は同じだと思います。人間においてこの40kHz〜70kHzは鼓膜では認識できないので触覚によって認識しているのです。特に40kHz〜70kHzは髪、皮膚で認識しています。また20Hz以下の超低音も鼓膜ではなく皮膚で認識しています。
 神社の参道を歩いたり、砂浜海岸や山で横になったり、小川のほとりで佇んだりした時に心が落ち着いたという経験がありませんか。これは微風によって葉と葉がこすれる音、波によって細かな砂がこすれる音に40kHz〜70kHzが含まれているのです。従ってそのような場所にいると自分自身にじっくりと向き合うことが可能になるのです。
 先ほど音楽そのものに様々な効果があると書きましたが、音楽のどの部分、例えば楽器なのか歌声なのかメロディーなのか歌詞なのかを自分と向き合って、どの部分が自分にその効果が得られているかを分析してみましょう。しかしほとんどの人は深く考えないまま過ごしています。さらに音は目に見えないので深く考えなくても生きていけるのです。この普通の環境からある部分に特化させる力(分析する力)に意識を切り替える様にすると誰も気付かない事に気付くようになり、かつ自分の存在価値が高まります。
 将来自分が後悔しない人生を送るためには、このように思考を変えることが必要不可欠だと信じています。この新型コロナウィルスによって社会、世界情勢、価値観が大きく変動している現在、人間が本来持っている五感の重要性を緊急事態やリラックスする場合等を除いて
  聴覚、触覚、視覚、臭覚、味覚
の順に切り替えるようにすると思考のカットチェンジがしやすくなります。
 視覚優先は過去のもの、と意識改革してみましょう。
 今まで述べてきたカットチェンジする思考はそれぞれの項目に分けて書いてきましたが実は一つの考え方に繋がりますので、自分に合った切り替え方が望ましいと思います。

<教 育>

 明治維新後の日本教育は東京帝国大学を筆頭に国家にとって即戦力となるエリート教育がなされてきましたが、その教育効果は目覚ましく戦前の日本の発展と戦後を復興させた日本の大きな原動力になりました。しかし2000年以降の世界経済のグローバリズムやインターネットの発達によって従来の衣、食、住から始まり社会、経済、政治体制の価値観が大きく変化しています。
 キャッシュレス社会、商店の無店舗化、AIロボットによる介護業務や単純業務、交通機関や運送業務の無人化、VRによる観光、教育などによる大幅な労働力削減が想像以上に現実化するであろう現状では今までの教育体制や方法では対応しきれないだけでなく全世界的価値観から取り残される恐れがあります。そのような社会になっても地に足をつけて生きて行ける人間になる為にこの提言を書きましたが、本来は小学生からこの考え方の教育が必要だと痛切に感じています。
 今後の日本にとって教育はどうあるべきかを述べてみたいと思います。

 義務教育は憲法第26条第2項により、すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。
 その目的・目標は、憲法、教育基本法、学校教育法、世界人権宣言、国際人権規約、子どもの権利条約、障害児関係法などに規定された市民権としての教育への権利を保障すること。高度に発達した複雑な現代社会において、生涯を人間としてとにもかくにも生きていけるだけの資質能力を体得させること。「人間力」を備えた市民となる基礎を提供すること。つまり、社会に生きる市民として、職業生活、市民生活、文化生活などを充実して過ごせるような力を育むことと言える。これは、「生きる力」として文部科学省が教育改革の中で提唱してきたことと軌を一にするもの。(文部科学省の義務教育の目的,目標より抜粋)

となっています。日本国家が日本国民を「人間力」を備えた市民となる基礎を提供するという日本国民にとって理想の理念がこの義務教育にあります。
 しかし1950年以降からこの理念が徐々に薄れ始めました。それは中学卒業生の集団就職による労働者(ブルーカラー)と大学卒業生(ホワイトカラー)との身分と賃金格差が生じ、良い生活の為には大学を卒業しなければ・・・という価値観に傾斜し、結果現在は義務教育の場は大学受験勉強する場となっています。2020年の今日においてもそれは顕著です。加えて教育者の方も義務教育の理念を理解しているのかいないのか分かりませんが「子供達に何を教えるか?」という哲学がありません。

<算数>

 算数的活動を通して、数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け、日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え、表現する能力を育てるとともに、算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き、進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。 

<国語>

 国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力及び言語感覚を養い、国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。

<社会>

 社会生活についての理解を図り、我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て、国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。

<理科>

 自然に親しみ、見通しをもって観察、実験などを行い、問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに、自然の事物・現象についての実感を伴った理解を図り、科学的な見方や考え方を養う。

<音楽>

 表現及び鑑賞の活動を通して、音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育てるとともに、音楽活動の基礎的な能力を培い、豊かな情操を養う。

<家庭・生活>

 具体的な活動や体験を通して、自分と身近な人々、社会及び自然とのかかわりに関心をもち、自分自身や自分の生活について考えさせるとともに、その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ、自立への基礎を養う。
 衣食住などに関する実践的・体験的な活動を通して、日常生活に必要な基礎的・基本的な知識及び技能を身に付けるとともに、家庭生活を大切にする心情をはぐくみ、家族の一員として生活をよりよくしようとする実践的な態度を育てる。

<体育>

 心と体を一体としてとらえ、適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して、生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り、楽しく明るい生活を営む態度を育てる。

<図画工作>

 表現及び鑑賞の活動を通して、感性を働かせながら、つくりだす喜びを味わうようにするとともに、造形的な創造活動の基礎的な能力を培い、豊かな情操を養う。
(文部科学省 学習指導要領「生きる力」より抜粋)

 上記のアンダーラインの部分は今まで述べてきた各項目に通じていないでしょうか?
 
 校庭に一本の木が立っていると想像して下さい。春になると葉が出始め夏には青々と茂ります。秋になると葉は黄色に変化しさらに茶色になり冬には全て散ってしまします。人はこの木の葉の変化で季節を感じています。これは視覚情報から得ているのですが、私たち人間は木の生命力を葉で判断するのではなく不可視な根に向ける様に思考をカットチェンジしてみましょう。根は木の生命の根幹であり、根が弱いとすぐ倒れてしまうことは誰でも理解できるでしょう。この根が文部科学省 学習指導要領「生きる力」の理念なのです。地に落ちた枯れ葉は根の回りの土地を肥沃にし木の生命力に寄与しますが生命力そのものにはなり得ないのです。現在の学校教育はこの根の教育がなされておらず、枝葉の教育に終始しているのではないかと疑問に思うのは私だけでしょうか。受験勉強は合格する為の方法論の教育で本質からかけ離れた枝葉の教育といっても過言ではないでしょうか。

 ここで提案があります。
 この根の教育の一部が今まで述べてきたカットチェンジ思考になりますが、まずは私たち大人がこれを再学習する必要があります。家庭では父母、学校では教師、企業では経営者、管理者などが学習する機関の開設です。その機関を卒業した人たちが家庭、学校、企業で子供達や新入生や新入社員を教育するのです。地に足がしっかり付いて(強靱な根)、多少の問題発生に対しても倒れないで立ち向かっていく人の育成を主目的とします。
 勉強する意味、働く意味、生きる意味を押しつけるのではなく、それぞれの人たちが自分の考えで目標設定、計画立案、実行、結果検証が出来る人になるように指導する人材育成が急務だと考えます。

 入学後の勉強する前、入社後の仕事する前などの「前教育の実践」を行い、思考のカットチェンジ後から勉強や仕事に入る環境構築を提案致します。

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